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【このまちを知りたい旅 Vol.3 花通り会】

このまちでお店を開いて、
店や仲間を通して色々な繋がりができた。
けれどまだまだこのまちのこと、知らない場所も人も沢山ある。
「足利をもっと知りたい!」の想いに導かれて、仲間と時々ローカルツアーをしてみることに。

コロナがあっても、なかなか仲間と集えなくても、続けていたことがある。
無理ない頻度でその時間に来られる人で、北仲通りの清掃活動。
毎回少しずつエリアを移動して、草をむしったりゴミを拾ったりしながら、とりとめのない世間話をする。

3月の末、今回はヌーベルスクエアと、うおえの前あたりから西の方向へ。
今日はもっくもっくの若大将もお手伝い、小さい手で草をむしってほうきで掃き清める。
「ほうき取ってくる」自分の店へ走って向かおうとすると、Mahler’s parlorの店主が出てきて「これ使いなよ」とちりとりもセットで貸してくれた。
町内のご婦人が、水まきに出てきてちょっとおしゃべり。手織りや染色のお教室をやっている方だった。
「だんだん手入れがしんどくなっていたから助かるわあ」。
モリジリパン(ざくろ)のきぬちゃん家族とお知り合いで話に花が咲く。

草むしりをしていると通りかかる近所の人と決まっておしゃべり。

この通りには、市が整備した花壇が所々にある。生えている植木の世話は、面している家や店の人がしたりしなかったり。それは個々人に委ねられているので、特に春夏、空き家前はけっこう雑草がのびている。
しかし、ゆっくり辺りを見回すと、季節毎の花が色鮮やかに咲く植栽用のコンテナが花壇の合間合間に。添えられている札には「花通り会」とあった。

「花通り会」とはなんだろう?
近所の人づてに主催者を探し当て、会のこと北仲通りのちょっと昔のこと、聞いてみることにした。

北仲通りは昔、バスが通る道だった。
東足利と桐生天神町を結ぶ東武バス、今の「織物会館」の前あたりにもバス停があったらしい。
当時、八百屋、魚屋、本屋といった個人商店が25,6軒は並んでおり、
通りの西端にあるギャラリー碧の前には、「マロン」という菓子店が、温もりを感じるホームメイドのケーキを販売していた。
時代と共に街中の量販店が増え個人店は減少、北仲通りの店も少なくなり地元の買い物スポット、「十字屋デパート」も無くなって、10年は大きな空地に木枯らしが舞っていた。
「今フレッセイ(スーパーマーケット)があるところに十字屋はあったんだよ。屋上には小さい遊園地がついていて、観覧車がぐるぐる回っていて。一時は通り沿いもすごい人出で。空地になってからはパチンコ屋やガソリンスタンドにって話が出たこともあった」
と話すのは、フレッセイの東側から北仲通りに突き当たったところで、100年以上自然食品の店を営む「霜田天狗堂」のご主人。「花通り会」主催メンバーの1人だ。
近隣以外でも市内の人に北仲通りを説明するのに「まむしの店の通りです」というとどんな山奥の人でも分かる。
店内には乾燥まむし、天狗の面、鹿のはく製等があり、子供もついつい気になって店の中を覗き込むこと多々あり。

時を経ても変わらず通りに佇む霜田天狗堂。

ご主人は三洋電機に就職した後、市外から足利事業所(現在アシコタウンがある場所)へ配属されてやってきた。後に結婚する伴侶の父が営んでいたのがこのお店。義父から商売を継承し、サラリーマンを辞めた。その頃、時代と共に北仲通りでも個人店の廃業が続いた。
「うちの店以外にもポツポツはまだ商店があったんだよ。このままではいけないと思った有志で色々考えて」
北仲通りは大日様(鑁阿寺)と織姫神社へ抜ける道だなという観点で、活性化の試みを始めることに。
当時の織姫神社の社務所は、常駐する人員がおらず埃だらけ。
まずは社務所を商工会議所の職員と掃除。
後に、織姫神社奉賛会が入ってもっと整備が進み、今の立派な社殿が維持されるようになったという。

そこから当時の市会議員が声をあげ、北仲通りの整備計画が一気に動き出していく。
「地元の声も反映しようということで、タウンミーティングも実施されたんだよ」
街路灯は明るくしよう、段差のない道にしよう、アスファルトは水はけがいいように吸水性のもので。電線の地中化も市内では早かった。

左が霜田天狗堂ご主人。
当時の様子を記録した写真を見せてもらうメンバー。

通りがきれいになったことで、さらに何かしようということになり、街路灯にハンギングバスケットを吊るすことや季節に合わせて七夕飾りをすることから着手した。(七夕飾りは後に商工会議所主催へ変更、現在の七夕祭りへ繋がる)
次に実践したのが懸賞付き(旅行券)プランター植栽の募集。
さらに翌年は、マグロの解体ショーや雑貨大処分市を行ったが、徐々にメンバー内で意見の相違が顕著となっていく。常に北仲通りでできることをしたい、花(植栽一辺倒)に関わる活動をしたいという幾人かが袂を分かち、霜田天狗堂さん、浅貝商店さん、あしかがかえんさん達が中心となり、誕生したのが「花通り会」(平成20年)だった。
花を植えてきれいにすればゴミも捨てにくくなる思いもあった。

子供も大人も一緒に作業。
街燈に吊るしたハンギングフラワー

32軒の賛同者から、初めは月500円ずつ、寄付も募って備品や花の苗、プランターを買った。
植栽活動の他に、年3回雑草除去も行っていた。
ヌーベルスクエアでピアノを教えていた亀田さんもサポートをしてくれた。
当初、補助金も活用したが、「自分たちが金を出してもいいからやろうと思う人が、10年はやっていこうという気持ちのある人が、数名いないと活動は続けられないよ」と霜田さんは言った。
協力者が年を取り、このまちからいなくなる人もあり、最近「花通り会」はたたんだ。残った活動資金は、主要メンバーで分割し、資金が尽きるまで花を咲かせてほしいとお願いした。

花苗の寄贈も沢山頂いたそう。

霜田さんがまちおこしの活動をするようになったのは、子供に「お父さんがんばっていたんだね」と言われるような、自分たち大人たちの背中をみせたいと思ったから。

霜田さん達世代から、私たちが引き継ぐものは?
どうしたら、持続可能なまちづくりができるのか?
民間と行政のいい関係ってどんなだろう?
私たちが次の世代に渡したいまちの姿は?

どの世代でもまちのことを考えて活動する人がいたから今もこのまちは生きている。
失敗したり成功したり一喜一憂しながら、やっぱりこのまちで、働いたり育てたり生きていくのだろう。

このまちをかたちつくるのは、まちで生きる・生きてきた人の行動と思いなんだ。
「花通り会」の存在は、そんなことを感じさせてくれる。

【ライタープロフィール】

なべのそこ
大正6年に建てられた古民家をベースに、色々やっています。
EVENT,RENTAL SPACE,LOCAL TOUR,and more

まちはなべ。
まるでおでんのタネみたいに、
多様なヒトモノコトが
なべの中を行き交っている。
ぐつぐつ煮込んで
滲み出した深~い旨みが
このまちの魅力だと私は思う。

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